日本における「会社」は、「社会」、つまり生活共同体の一部として機能していたのではないかと考えています。自分が所属する社会の一部だからこそ、時には自分よりも会社を優先する。このように、会社はかつての農村のような共同体としての存在でした。
仮説ですが、かつての農村における共同体の概念が、徐々に会社という形へと移行したのではないでしょうか。
「会社は誰のものか?」という議論があります。制度上は株主のものとされていますが、実際には共同体に参加する人々、すなわち従業員のものであると考えることもできます。同様に、短期的な利益を追求する株主よりも、持ち合い株主や従業員が共同体への参加者として優先されるべきとも考えられます。
経営者についても同様です。日本では、一従業員から段階的に役職を上げて経営職に就くことが一般的です。もし経営職が共同体を代表する存在であるなら、その共同体で長く生活してきた者から代表者を選ぶのはごく自然なことです。「終身雇用」「年功序列」「企業内労働組合」という日本独自の経営システムは、日本の農村社会のシステムを会社に持ち込んだものと考えられます。
しかし、最近では雇用の流動化が進み、個人の生活と会社を分離する動きが強まっています。加えて、最も基本的な共同体である「家族」も、未婚化や少子化などの影響でその存在が薄れつつあります。もし人々が所属する共同体を失った場合、日本社会はどのように変わるのでしょうか。想像するのも難しい状況です。
労働組合と株主代表訴訟
労働組合は株主として企業統治に参画することもできます。たとえば、腕時計で有名な「セイコー」のグループ会社「銀座和光」では、役員の任期途中での辞任が頻発しました。労働組合が監査請求を行った結果、親会社の名誉会長に気に入られた取締役によるパワハラが明るみに出ました。組合は、このパワハラが会社に損害を与えたとして株主代表訴訟を提起するよう会社に要求しました。会社側はこれを恐れ、名誉会長と和光の取締役を解任。結果、組合が訴訟を起こす前に事態は解決しました。この事件は2010年に起こったものとして有名です。
株主代表訴訟の要件として、6か月以上前から1株以上の株式を保有している株主は、会社に対して損害を与えた役員への責任追及を訴訟するよう請求できます。もし会社が60日以内に訴訟を起こさない場合、株主は会社に代わって訴訟を提起することが可能です。
近年、労働組合への加入率の低下が問題視されていますが、株式の保有を通じて共同体の経営に直接参画することは、労働組合の新たな役割として考える価値があるのではないでしょうか。